わが青春の軌跡

 山の町、沼田での子ども時代

  昭和20年2月、終戦の半年前の台湾で、私は生まれる。翌年3月、父の郷里に引き揚げ、尾瀬の入り口の町、群馬県沼田で育った。暖かい台湾から、春まだ浅い山の町に着いた一歳の赤ん坊は肺炎を起こし、医師にもうだめだと言われながら、その時分は貴重な医薬品であったペニシリンを千円で入手することができ、命をとりとめたという。当時、台湾からの引揚者は一人につき千円のみ持ち帰ることができ、「弘子はその千円で命拾いしたのよ」とよく母から聞かされた。この肺炎があとを引いたのか、私の少女時代は死にそこないの弱っかすを絵に描いたようであった。小学校の低学年の頃は、BCGを打って微熱を出し、病院でパスという結核の薬をもらうなど、学校も休みがちで父母に心配をかけた。二人姉妹の妹は、発育もよく活発な美少女で、町の写真館に可愛らしい妹のスナップが飾られているのを見て、姉の私はコンプレックスを感じたりもした。

  弱っかすだった子ども時代の最大の楽しみは映画を観ることと毎日配達される新聞や家にある本を読むことだった。映画は母と妹と三人でよく観た。母は台湾で父と結婚し、引揚げ後、父の郷里で暮らすこととなったが、世間の狭い山の町ではいわゆるよそ者であり、結構気詰まりなところもあったようである。父はそうしたことを察してか、妻と子どもたちが頻繁に映画を観に行くことに優しかった。沼田の町には4つの映画館があった。なかでも、東宝、松竹の映画を上映していた「東宝」や、洋画と大映の映画を上映していた「銀映」という映画館によく通った。夏休みの時期にはナイトショーも観に行った。冬の寒い時期には映画館で火鉢を借り、帰り道は母子で肩を寄せ合って帰った。小津映画、黒澤映画も沢山観たし、当時流行っていたサラリーマンもの、青春もの、市川雷蔵の時代劇、モンロー、ヘップバーン、ジェームスディーン、プレスリー、アランドロンとなんでも観た。もちろん、当時、子どもたちに人気のあった東映の時代劇や日活映
画も数少ないが観ている。ちなみに妹は裕次郎ファンであった。

  映画の楽しみは、観ているときだけでなく、その後、頭の中で反芻して楽しむ分も大きい。妹はよく夢でみた映画の話をしてくれた。あの映画の結末は納得いかないとお姉ちゃんも言っていたけれど、実は私の夢でもこういう風になるのだと微に入り細に入り話し、そうだそうだ、いや違うと盛り上がったものである。その妹が46歳の若さで亡くなって早や8年が経った。今と比べ、貧しくはあったが幸せだった子ども時代、その思い出を共有する片割れに逝かれることの寂しさ、無念さは年を経て増すばかりだ。

  映画とともに新聞や雑誌を読むのも大きな楽しみだった。学校から家に帰ると炬燵でおやつのリンゴを丸かじりしながら新聞を読むのは、何とも言えず幸せだった。若き日の石原知事が、一橋大の学生たちと南米をスクーター旅行した紀行文の連載などは、今でも鮮やかに憶えている。夕刊がくるのを待って一番先に読んだ。昭和30年代の前半、日本はまだ貧しく、若者が海外に出て行くこともめずらしかった。また、欧米人におどおどしコンプレックスを持っていたように思う。にもかかわらず、そうした劣等感をひとかけらも感じさせないモテモテの若い日本人の姿が、田舎の中学生にとって眩しく誇らしかったのだと思う。

  雑誌は母が読んでいた「婦人公論」や「キング」、「日本」など、何でも眼につくものを拾い読みしていた。東京に出てきてからの大学の図書館で伊藤整の「女性に関する十二章」「伊藤整氏の生活と意見」を見つけ、そこで初めてきちんと読んだのだが、以前に拾い読みしていた懐かしさと共に生活観に共感を覚えた。以来、伊藤整氏は、一生懸命さとインテリジェンスという、私にとっての生きるうえでの規範を思い起こさせる人となった。


  中学生になる頃、ようやく体も丈夫になり、学校生活も楽しくなる。同時にこの時代は、両親から生きる姿勢のようなものを学び取った時期でもあった。父は昨年の夏、82歳で亡くなったが、農村社会の価値観を律儀に終生持ちつづけていたように思う。「人間、気がやさしくて力持ちが一番」「お天道様は見ている」「早起きは三文の得」と子ども達に常々言い、正直さ、勤勉さを体で表しているような人であった。母は転勤の多いサラリーマン家庭に育ち、父と異なる世界を見ていたこともあって、父の価値観を大事にしながらも子ども達にそうばかりではないこと、沼田以外の世界があることを教えてくれたように思う。

  この両親のおかげで私は大学に進学することができた。「女子を大学にやったら嫁の貰い手がなくなる、まして東京になぞ出したら碌な事はない」という周囲の声にも、うちの子に限ってそんなことはないという父の子煩悩さと、自分にできなかったことをさせてやりたいという母の思いが、弱っかすな田舎の少女を大都会へと旅立たせてくれた。


 大学進学で東京へ

  昭和38年4月、日本女子大学文学部社会福祉学科に入学。「社会福祉」といういかにも現実的な学問が、何か女性の職業に結びつきそうに思えたのである。私の大学生活は目白の大学から道を一本挟んだ雑司ヶ谷の寮で始まった。今でもあの当時を思い起こすと、何か気恥ずかしくも熱いものに触れる思いがする。若く未経験で自信もなく、おどおどしているのに、「何もの」かでありたいとせっかちに、そして傲慢に青春特有の泥田の中でもがいていた。付属高校から上がってきた同級生の垢抜けた風貌に驚き戸惑いもした。そんな時、沼田の家に帰って読んだ「婦人公論」に掲載されていた、柴田翔氏の「青春という〈生の季節〉」という青春論に救われたような気分になった。ゲーテは、小説「親和力」の中で、「人間の生涯のさまざまな季節は、おのおのの固有の幸福、固有の希望と展望を持っている」と述べているそうだが、今ならもっとわかるような気がする。

  寮生活は同世代の人間が寝食を共にする中で多くのことを教えてくれた。年を経ても寮の仲間は懐かしく、顔があえば一遍にタイムスリップしてしまう。また大学時代の四年間は高度成長期における、地方の変貌を目の当たりにした時代でもある。地方における進学率も急上昇し、スーパーマーケットができ、東京と同じものが販売され、あっという間に変わっていった。帰省の折、目白の田中屋のケーキを買って帰ったものだが、田舎にないのはおいしいケーキ屋くらいになっていた。

  大学で社会福祉を学ぶ中で学童クラブのボランティアをしたり、病院での医療ケースワークの実習、福祉事務所、児童相談所での実習等、短期間とはいえ、現場を見たことは私にとって大きな経験となっている。社会福祉の周辺問題としての労働問題を卒論のテーマとしたことから、昭和42年の入都に際し、労働局を希望して労政事務所に配属されたが、いつか福祉の仕事にかかわることもあるのではないかと考えていた。しかし、辞令をもらえばそこで力を尽くすという私の職業生活にあって、福祉の仕事は縁がないままとなっている。


 そして、今

  振り返ってみると、私は物心ついた頃から大人になったら精いっぱい自分の力で生きてみたいという思いを持っていたものの、人生に対して受身で対応してきたように思う。これはもと弱っかすの田舎の優等生であった私の限界なのだろう。しかし、受身の人生も、その途上で遭遇した現実を真摯に受けとめながら、次第に自分が「何もの」でありうるかということを学んできたように思う。仕事、結婚、子育てを通して学んだものは大きい。管理職試験の受験も、管理職になりたいという積極的な意志からでなく、当時の女性の職場配置や扱われ方の問題への、現状打開の一方策として受験した。だが、管理職として昇任するうちに、女性が政策決定に関わることの必要性や、管理職の役割についても深く考えるようになった。誠実に取り組む中で自分自身を育てることもできた。子どもにもずいぶん癒され、育てられた。赤子の小さく柔らかな命の懸命さに、ああ、私はそう簡単に死ねないぞ、と決意を新たにしたものである。自分自身を絶対的に必要とするものの登場は勇気の素である。昨年孫が生まれたが、孫はただただ愛しいのみだ。子どもが成人した今は、末娘と夫を亡くした母のため、彼女より先に死んではいけないと心に誓っている。

  若さゆえ、未熟さゆえにこれまで多くの人にずいぶん迷惑をかけてきたと思う。しかしそうした中で多くの人に育てられて今日がある。夫をはじめとした家族、職場の仲間、お世話になった方々に感謝でいっぱいである。年を経てわが出生の地、台湾のことを知りたいという昔への思いや、若い子どもたちが自分の考えをしっかり持ち、強みを磨いて世の中に積極的に羽ばたいて欲しいという思いが交錯する。私も自分の内心の声に素直に耳を傾け、少しでも私たちが暮らすこの社会に貢献できたらと思っている。(都監査事務局長)


「都政研究」(2002/03)より